「〇 丸 円」

「〇 丸 円」

11月15日(水)

 秋田県知事のじゃこ天は「貧乏くさい」発言、大好きな知事ですから少々驚きました。しかし、愛媛県知事とのコラボは本当に素敵でした。まさに神対応ではなかったでしょうか。お互いがお互いの県をPRできて本当に素晴らしいことだと思います。まさに丸く収まったという話ですね。そもそも、最近のこうした出来事への過剰反応は少々行き過ぎ感もありますが、それほど社会が敏感になってきているのではないでしょうか。そのように私は感じています。統一教会の問題、私は詳しく知らないので否定もしませんが、多くの信者を集める何かがあったのでしょう。そもそもこうした過剰反応も含めて、人間の心が痛んできていると私は感じています。こうした背景に宗教の全否定があるのではないでしょうか。そもそも人類が誕生して以来、人は常に何かのすがって生きてきたのです。その人の心の本質的な部分を全て否定しているような感覚が今人の心を狂わしているのではないでしょうか。「新興宗教がダメで古くからあった信仰は良い」、本当にそうでしょうか。誰しもが知る京都のお寺の大僧正様の大きな脱税も記憶に新しいところですし、東京では誰しも知る初詣のメッカともいえる神社の兄弟が殺し合った事件も記憶にあります。高級車を乗り回し、クラブで遊ぶ宗教家をたくさん知っています。そもそも何が正しくて何が正しくないのか。

 こうしたご時世の中でまさに今回のことは「丸く収まった」という話ですが。そもそも、何故に丸く収まるというのか。それは「角を取れ」というお釈迦様の教えに由来すると聞いたことがあります。角とは何か、その角こそが「執着」であり、煩悩であると言われます。執着とは何に対する執着かと言えば「差」に対する執着なのです。差とは何か、様々あります。自分より美しい、自分より頭が良い、自分よりお金持ち、良い家に住み、良い車に乗り、上げ始めたらきりがない話です。つまりは比較するから「差」が生まれるのです。今回の秋田県知事の「貧乏くさい」、そもそもお金持ちがあるから貧乏が存在するのです。最近の失言なるものを見るに、ほぼその全てが「比較」をすることから始まっているのです。比較は差から始まる。故に差に苦しむことから「煩悩」は生まれてきます。であるならば「差」を意識しないようにすればよい。それが「差取り」、悟りなのではないかと最近思っています。みんな違うから、良いのではないでしょうか。

 世の中、本当に不思議です。石が川の中を転がれば丸くなる、しかし石を構成するそもそもの原子は丸です。宇宙も丸く、術の物は皆〇に収まっていくのです。比較する、学の原点は真似る、善いことは真似ることは良いのでしょうが、ねたむべきではありませんね。加えて、今回の騒動、言われた側(四国)が「仕返し」という手に出たらどうだったでしょうか。結果として見える現在は全く異なったものになったでしょうね。何かの機会には「許す」ことから始まることが肝要なのです。ここで比較をするのはどうかという話ですが、愛媛・秋田両県知事の「年の功」というのが活きた気がします。若いことは魅力的なこと、しかし「百聞は一見に如かず」、そして「百閒は一体験に如かず」です。多くの人生経験の中でこうした神対応も生まれてくると思います。いずれにしても、二人とも良い顔をしていました。まさに丸顔でした。手を合わせること、そして全てに感謝が出来ること、許すこと、年配者を敬うこと、誰かと比較して羨むのでなく、苦しむのでなく先ずは受け入れること、宗教という言葉でひとくくりして否定するのでなく、こうした人間としての素晴らしい本質を見直していく、しかし人は弱いものです。こうした人としてということを感じることが大切な時が来ているのではないでしょうか。

 丸く、円く、〇く、行きたいですね。ところで、本日は先日見学していただきました刈谷の商工会議所の皆様から身に余るお礼を頂戴しました。各務原市の商工会議所からもたくさんの皆さんに謝意を伝えられました。「ありがとう」、この言葉も丸く収まっていく秘訣ですね。

社長 松原 史尚

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