「銀行のプラチナ会員懇親会」

「銀行のプラチナ会員懇親会」

7月7日(金)

 今日は七夕ですね、午前中は快晴で今日は天の川も観られるかと期待していましたが、午後からは天気も怪しい感じです。残念ですね。それでも七夕の金曜日、皆様にとりまして素敵な週末になる事を祈っています。

 さて、毎年恒例で七夕の日にメインバンクのプラチナ会員の懇親会が開かれます。20年になりますが、毎年変わらずこの七夕の日です。私は、20年前からの創立メンバーですが、可能な限り参加するようにしています。創立当初から比べると、参加される人が少し高齢化しているかなとも思います。皆さん、20年年を重ねておられますから、仕方がないのですが。

 懇親会も抽選会もあり、それはそれで楽しみにしていますが、それだけでは参加する気になれません。もちろん、銀行の頭取様はじめ普段会えない人と交流できますので素敵な機会ですが、それ以上に楽しみにしていることがあるので毎年可能な限り参加しようと思っています。

 それは、毎年このプラチナ会員の中から一人が講演者として講演をしていただけ、その内容が毎年非常に勉強になるからです。昨年も最前列、今年も最前列でお話を聞かせていただきました。私は、最前列の端の方に座るのですが、いつも中央に必ず座られる方がおられます。当社の顧問会計士事務所の会長様です。本当にこの方の学ぶ姿勢には驚かされます。

 今年の講演会は、岐阜プラスチック工業(株)の代表取締役会長 大松利幸様からの講演でした。

 大松会長の先代、創業時の話がメインで話を聞くことができました。岐阜プラスチックさんは、てっきり戦後のプラスチックブームの中で淘汰・集中により大きくなってきた企業だと勝手に解釈をしていましたが、日本にまだ全く「プラスチック」という言葉がなく「高分子化学」による研究段階で創業していったのだということが理解できました。まさに日本におけるプラスチック産業のパイオニアであったわけです。企業の創業者というだけでなく、プラスチック産業の創業者でもあったのです。

 金型も機械も材料も全てが一からの挑戦、しかも最初は失敗の連続であったのだと。資金もなく、奥様の実家に寝泊まりして、食事すら奥様の実家にお世話になる始末であったとか。その後、関西プラスチック商会という商社との出会いで、仕事は軌道に乗り始めます。日用雑貨をプラスチックで造り始めたのだと。その商品が丸物百貨店に並んだ時には家族で見に行かれたそうです。大変に嬉しかったと思い出を語られました。(恐らく、このブログを読む人たちの多くは「丸物」を知らないでしょうね。岐阜の柳ケ瀬にありました。子どもの頃、少しだけおしゃれな服を着ないといけない場所であった記憶があります。2~3ヶ月に一度この丸物に行き、帰りに中華料理を食べて帰ってくる。それが子供の頃の一番の楽しみでした。そして、それがなければ妻と結婚もしていません。どうでもよい話ですが。さておき、後に近鉄に吸収されて姿を消します。)しかし、「好時魔多し」という表現をされましたが、このプラスチック商会が突然倒産をされます。債権者会議に出席をしますが、あまりの人の多さに「とても債権回収などできない」と判断されて帰宅し、改めて時間をおいてこの商社さんの社長さんを訪ねられたそうです。その目的は、債権回収でも、恨みの一つをぶつけるでもなく「お礼に行かれた」ということ。「どん底で、もう止めようと思った時に貴社があったから生き残れることが出来た。」そう伝えに行ったそうです。こうしたご縁でこの商社さんに勤めておられた方を社員さんとして数名迎え入れることが出来たこと、この人たちのネットワークで東京に販売ルートが出来上がったこと。人は最悪時に何を考え、どう行動するかで未来は全く異なっていく。そんな話を聞くことが出来ました。日常品で大ヒットをしますが、経営の柱は1本ではいけないと多角化を展開され、プラスチックブームとも重なり成長を遂げていかれますが、失敗事例も無かったわけではありません。食品分野への展開では、当初は軌道に乗るも、新たな高性能な機械の登場で、この分野は経験などなくても誰でも出来る分野になってしまい、その結果多くの家庭企業(いわゆる3ちゃん企業)が山ほど登場し、こうした企業との価格競争が全く出来ず、他分野で出した収益を全て食分野が持っていく事態になってしまい大赤字になった時代もあったのだと。その中で、シート事業への挑戦をされます。この折には材料メーカーからの大妨害もあったのだとか、大変な投資とアメリカからの技術導入も進め結果的には大成功を収めたのだと。まだまだ話は山ほどあるので、夕方まででも話が出来るということでしたが、締めくくられたのが「クボタ」様への進出の話でした。鋳鉄による水道事業、この鋳鉄は、いつかは腐食し、破裂し、大きなインフラの生涯が起きる。この分野をプラスチック化していく。しかし、その継ぎ手は極めて小ロットで多品種となる。この分野への挑戦の話です。時に大阪商工会議所の会頭をしておられたクボタの社長様に会頭室で5分だけ時間を頂けたのを機会に、企画書を持ってプレゼンに臨まれます。クボタさんでは会えない、岐阜プラスチックというわけもわからない企業の話、しかも進めるのは公共工事、普通に考えても社長と雖も何ともなる話ではなかったと思います。5分の予定が1時間聞いていただけたそうですが、その後4か月音信不通となり、もうダメかと思った折、半年後にクボタ本社に呼び出しがかかるのだそうです。その話が軌道に乗り、3万坪の土地を入手、その後、岐阜プラスチック工業の大躍進が始まります。この先の話も聞きたかったのですが、時間の都合で、ここで終わってしまいました。こうした、創業者のお話にはドラマがあり、そこからは多くの学びがあります。社長としての覚悟、そして進むべき方向を定めたら猪突猛進、寝る時間を惜しんでも戦い続けた創業者の姿がありました。社長としての魂をゆすられる素敵な時間でした。

 一方で、こうした鋳鉄の継ぎ手をたくさん作っていたのが当社です。岐阜プラスチックさんの大躍進の背景に当社の苦悩の日々がありました。色々と、こうした話も感慨深いです。いずれにしても本当に良い時間が過ごせました、来年も楽しみにしています。改めて、皆さん良い週末をお過ごしください。

社長 松原 史尚

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